online VTS vol.2
- Keiko Kameda
- 2020年9月27日
- 読了時間: 5分
今回は作家の田中あつこさんにもご参加いただき、
いつもとは少し異なる角度からのコメントが出たりして豊かな場となりました。
VTSの良さ・・・多様であることが参加者個々の豊さになる・・・を改めて実感できました。
午後7:00。
参加メンバーは4名。みなさんお仕事のご都合などでスタートは2名から。
今はトライアルということで、第2回目はGoogleMeetを使ってみましたが
入口の案内場所がうまく共有出来ておらず「入口がわからない!」「迷ってます!」といった状態に(笑)。
こういうオペレーションもonlineでの実施では細やかに準備しないといけませんね(反省)。
今回も鑑賞する作品は、事前に参加メンバーからもらったお題からセレクト。
頂いたお題は「L.G.B.T.」と「残酷なもの」。
残酷なものというお題については参加者のみなさんに「あなたにとって残酷なのは?」という
事前アンケートを実施し、次の4項目が出されました。・惨殺される・誰にも気づかれない、誰にも必要とされない・基本的人権が尊重されない・突然の終焉
1作品目は森村泰昌(1951年~)の『私の中のフリーダ<イバラの首飾り>』(2001年)。
森村は1985年にゴッホの自画像に扮するセルフポートレイト写真を制作してから、今日まで一貫して「自画像的作品」をテーマに作品を作り続けている作家。そうした彼の作品群の中から選んだのはメキシコの女性画家、フリーダ・カーロ(1907年-1954年)の『いばらの首飾りとハチドリの自画像』に扮した作品でした。男性である森村が、バイセクシャルとしても知られているフリーダを投影した作品は「L.G.B.T.」というテーマに取り組む作品としては適していると感じました。
VTSをはじめると、先ずはフリーダ自身の顔の特徴でもある“太く濃くつながった眉”に焦点が当てられたコメントが飛び出しました。「眉が太くて濃く、口まわりに髭のような毛深さがあるので男性っぽいが、頬など(の肌質は)つるっとしているし、胸のあたりが膨らんでいるような影があるので女性みたいでもある。・・・男女両方ともの特徴がある。」次に出てきたのは中央のフリーダらしき人物と、その背後に描かれた黒いサルのような動物と茶色い猫のような生き物たちとの関係性について。生き物たちの立ち位置や目線から「中央の人物と生き物とは(物理的に)距離が近いから、親しい関係性のように見える。でも中央の人物よりこちら側にいる者には警戒心を抱いているような目線でこちらを見ている」「顔には両性、髪に飾った飾りや背景の植物がカラフルなこと、生き物と人物が同じように親しそうにしていることから、彼女は多様性を代表する人物みたいな・・・多様な世界とそうでない世界の間で生き物たちを守っているような…」といった言葉が出てきました。
途中から参加した2名とも同じように作品を鑑賞しましたが、少しづつ重なる部分や解釈の幅が違ったりして、ナビゲーターの立場としては、鑑賞者によっても発見が拡がるということを再度実感できて興味深かったです。
2作品目はジャック=ルイ・ダヴィッド(1748年-1825年・フランスの新古典主義の画家)の描いた『マリー・アントワネット最後の肖像』(1793年)を鑑賞しました。
鑑賞した作品は、パリ国立図書館に収蔵されている資料の1ページに掲載されたペンの走り書きのような1枚のスケッチ。残酷さというテーマから出てきた4つのキーワードが帰結した作品として、私はこの作品を選びました。作品が描かれたのは、マリー・アントワネットがギロチン台へ連れて行かれる途中の市中。動物の死体運搬用の荷台で後ろ手に座らされ、斬首のために耳の位置でザックリと切られた短髪姿のマリーが描かれているものです。
コメントでは「手が後ろ手に拘束されていて、目も閉じて口をぎゅっと結んでいるので、何かを我慢しているのか、黙っているのか、待っているように見える」「胸のあたりはふっくらしているので女性だと思うが、鼻筋などから男性のようにも見える?」「でも背筋はピンとしている」「首の後ろがヘン。髪がない?実はカツラ?」「足元が描きかけのような状態で終わっているので、なにか急いで描いたとか、いい加減に描いたのかというようにも見える」といった言葉が出てきました。私はみなさんからの言葉を聞きながら、ちょっとゾッとする気持ちでした(苦笑)。絵についてのテーマは伝わっているものの、この作品のシチュエーションなどは説明していないのに、作品に秘められた出来事が克明に読み解かれていくように感じられたからです。
この作品は画家のダヴイッドがマリーが市中を引き回され、市民に嘲笑されたり罵られたりする脇に立ち、走り描きで写し取ったものとされています。ダヴィッドはナポレオンの肖像画などでも名を馳せた画家ですが、時代の権力者になびき、流れが変わるとあっさり支持を変えるなどしていた人物のよう。マリー・アントワネットを描いたスケッチにも彼女の美点を遺そうとするより、より醜さを強調する(華美に着飾った彼女には貧祖な走り書きを最期の1枚として残されるのは屈辱だったのではないでしょうか)ような描き方は、描き手の悪意を感じさせるともいわれています。斬首のために刑場へ運ばれる直前に散切りにされた髪、それでも背筋を伸ばし威厳を保とうとするかのような表情・・・描き手が変われば最後の1枚も違ったものになったかも知れません。残酷さには、悪意というものも含まれてくるのかも知れません。
今回の気づきとしては、作品選びの意図を引き出してもらいたくなり(笑)、ナビゲーターが誘導的な投げかけをしてしまったかも知れないという反省点。「こんなところに気づいてもらえたら楽しんでもらえるかも?」「あー、っもうちょっとここに気づいてほしい」そんな自我が顔を出し過ぎたなと感じました。これはきっと、あまりよくありません。次回からは基本に立ち返り、「ナビゲーターとしての中立性」を守っていこうと思いました。
あとは、VTS参加メンバーの解釈の深みが増し、言語化力がとても高くなってきたということも感じました。これ、すごいことだなって思います。

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